岐阜 飛騨古川の地酒の通販 | 白真弓・やんちゃ酒の蒲酒造場

岐阜県 飛騨古川の地酒 白真弓・やんちゃ酒『蒲酒造場』

歴史

白真弓について

初代の志を受け継ぎ実直な酒造りと地域貢献で今日まで発展

創業当時の時代背景

ふくよかで味わいの深い酒として、地元の皆様をはじめ全国の酒好きの方々から親しまれる「白真弓」。数々の品評会で賞もいただき、今や飛騨古川を代表する酒としてその名を知られています。

この白真弓の蔵元である私ども蒲酒造場が長きにわたって良酒造りに勤しんでこられるのは、初代・登安が懸命に築き上げた基盤と、代々の当主たちのたゆまない努力によるもの以外の何物でもありません。

宝永元年(1704)に創業

時をさかのぼること約300年前の宝永元年(1704)、登安はこの飛騨古川で商いを始めました。当時は第5代将軍徳川綱吉が世を治め、徳を重んずる文治政治や、生き物を大切にする生類憐みの令を発令するなど、新しい社会規範を生み出して理想の世の中を創り上げようとしていた時代です。登安も世の流れに逆らうことなく、順調に商売を広げてきました。

飛騨で大飢饉

そんな矢先、宝永4年(1707年)に、宝永地震が発生。富士山の側面で大噴火も起こり、東海道沖から南海沖にかけて甚大な被害を受けました。またこの大地震の影響で飛騨でも大飢饉が勃発。登安は飛騨古川の人々のためになんとか食糧を集めようと交易を行っていた越中国(現富山県)へ行き米を買いつけに走り回りました。

しかし登安は、国境で足止めにあって米の持ち出しを禁止されてしまったのです。その時「自分は留め置かれてもいいが、何とか米だけは飛騨国へ持って行ってほしい」と役人に懇願したそうです。

登安が残した財と基盤をもとに酒造りが始まる

昭和3年頃<

昭和3年頃。10代当主と蔵人

この話を聞いた奉行が登安の志に感動し、「登安一代に限って越中国との交易の自由を許す」と申し渡したといいます。そのおかげで登安の商売は繁栄し、財を築くことができたのです。

登安が残したこれらの財と基盤をもとに、その後酒造りが始まり、白真弓が誕生しました。

白真弓の名の由来

白真弓の名の由来は、万葉集の「しらまゆみ 斐太の細江のすが鳥の妹に恋れか いをねかねつる」(巻代十二)の中にある「ひだ」の枕詞に由来し、また飛騨には檀(まゆみ)の木が自生していることから白真弓と名付けられたのではないかと伝えられています。

蒲酒造場の顔となる酒、白真弓が作られて以降、私どもは代々にわたって連綿と酒造りを行ってきました。またこれら酒造りの伝統を守り続けるだけではなく、自分を犠牲にしてでも米を送ろうとした登安の精神を受け継ぎ、「利は貪るべからず頂くべし」を家訓として地域のためにも尽力し続けております。

家訓:利は貪るべからず頂くべし

家訓:利は貪るべからず頂くべし

社会や地域に貢献していくことは、酒造り同様私ども蒲酒造場の大切な使命でもあります。そのことをしっかりと胸に刻んで、より皆様に愛される蒲酒造場となり、銘酒・白真弓を作り続けていきたいと思っております。

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